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「だめだ。ジョアンについてなにも語れやしない~来日コンサートへ行って思うこと~」

「僕は音楽で自分を表現している。その音楽が音楽として良いか悪いかだけが重要だ。言葉による説明や補足は必要ではない。音楽を言葉の世界に翻訳するのは不可能だ(ジョアン・ジルベルト)」

実際、そうだった。11月8日国際フォーラムホールA。始めと終わりの丁寧なお辞儀以外、ジョアンは一切喋らなかった。MCおろか、挨拶もろくにない。それが、ジョアンの表現者として態度なのだ。徹底ぶりに驚く。
 キューバの観客たちは、マイルス・デイビスが背中を向けて演奏するのが気にいらなかったらしい。ファン・サービスは当たり前だと考えているのか。
 国は違えど、ジョアンも同じく南米人。祖国でも、それで通したのだろうか。

しかし、ジョアンの歌を生で聴けば、本当にそんなことはどうでもよくなる。二時間三十分をジョアンの世界で過ごしたあと、僕はそこから立ち去れなかった。自分が信じたやりかたでだけ、なにかを表現する。それが、本当に尊いことだと思ったのだ。

ジョアンはポルトガル語で歌う。英語ならまだしも、これだけマイナーな言語で歌われる音楽が愛されることって、なかなかない。でも、ジョアンの言葉は、ジョアンの言葉なのだ。「デサフィナード」に「コルコバード」。「ドラリッシ」や「ロウコ」。こんな馴染みのない言葉でも、遥か昔は僕らも話していたのではないかと思えてきてしまう。それでいて、生で聴くジョアンの歌は、いくらそれが馴染み深いものであっても、まさに今生まれてきたかのように生命力を放っている。おそらく、「ハブラシ」とか「ホッカイロ」なんて歌っても、同じことだ。つまり、“本質的”に何かが違っている。歌のテクニックだとか、声の質だけではない。現在そこにいる一分一秒の瞬間。それをジョアンはいつでも、あるがままの呼吸で表現している。いや、呼吸していること自体が表現になっているのだ。だから、ジョアンの歌には、とってつけたような抑揚やわざとらしい節回しがない。それから・・・

だめだね、なにかを書くたびうそ臭くなる。

ジョアン・ジルベルトという人について、もう少しなにかを言えるまで、興味があればこのCDを聴いていただきたい。二年前の初来日コンサートの折、ジョアンは心からこう言っていた。

               アリガトウ、ジャパン。アリガトウ。






ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー

ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー

  • アーティスト: ジョアン・ジルベルト
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルミュージック
  • 発売日: 2004/02/21
  • メディア: CD



ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー


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ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デヴィ』について、それでも考えるなら。

 今さら、この作品について語ることはそれほどない。こんな前置きをつけるのもためらわれるほど、有名な作品だから。でも、いまだ不思議に思うことがある。

 聴いたことのある人なら知ってると思うけど、この作品はライブ録音で、やたらスプーンが落ちる音や、観客の「ガハハハ」なんてひどい笑い声まで聞える。
 
 つまり、僕らをこれほどまで感動させる音楽、時代を超えて聴きつづけられる名演奏は、当事者にとっては「ガハハハ」なんて演奏そっちのけで笑いながら聞けるものだった、のかもしれない。
 実際のところ、ここに収められた拍手や歓声はそれほどでないのだ。しかし、だからこそこの録音は二度と再現できない特別な空間を記録した。ざわめきから立ち昇るピアノの一音が、かけがえのないものとなった。そんなふうにも考えられるのだ。
 
 つまり、観客も参加して(スプーンや笑い声で)こそ成立した空間。ジョン・ケージが『4分33秒』と題した理念だけの音楽(その時間なにも弾かないことで、観客まで含めた空間そのものが音楽であるとした)を、この録音は偶然にも創りあげてしまった。

 この録音を聞くと、まるで時代を超えて50年代のニューヨークに迷いこんだような気分にさせてくれる。それも、やはり観客の名演奏(スプーンの落下音や笑い声)があってこそ。
 そこで、僕らには一つのテーブルがあてがわれ、まるでエヴァンスその人を目の前にして聴いているかのような錯覚さえ覚える。

 音楽とは、それが鳴っている時間だけ存在する芸術だ。そう、切り取られたある一定の時間が、僕らを経験したこともない空間へといざなってくれる。 
 この録音における最高の共演者。それは、夭折の天才スコット・ラファロでなく、よき理解者ポール・モチアンでもない。偶然そこに居合わせた人々。げらげら笑う行儀の悪い客や、スプーンを落とすおっちょこちょいさんたちである。彼らがいなければ、この録音はこれほど素晴らしいものにはならなかった。ビル・エヴァンスには失礼だが、どうしてもそう思ってしまうのだ。

 
 
Waltz for Debby


ジャズを言葉で語ることについて。

 ジャズとは音楽なのだ。音は言葉に直せない。
 ジャズとは偶然なのだ。偶然も言葉には直せない。
 でも、ジャズの本はたくさんあって、そのなかでジャズは言葉に置き換えられている。
 彼らは、リリシズムとか、なんとか派とか、そういう分類をして音楽を紹介する。
 もちろん、言葉に直せないのだから、そういうしかないのだろう。
 「ジャズについて好きなだけ書け」と言われたら、いつまでも終わらない文章を書くと思う。
 それでは、本も雑誌もできない。だから、しょうがなくリリシズムとかいうしかないのだろう。
 でも、ジャズについて語るとは、そこで生まれた偶然というドラマを報告することではないだろか?
 少なくとも、今のところそう思う。
 そういうものを、これから書いてみたい。よろしくお願いします。


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