ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デヴィ』について、それでも考えるなら。
今さら、この作品について語ることはそれほどない。こんな前置きをつけるのもためらわれるほど、有名な作品だから。でも、いまだ不思議に思うことがある。
聴いたことのある人なら知ってると思うけど、この作品はライブ録音で、やたらスプーンが落ちる音や、観客の「ガハハハ」なんてひどい笑い声まで聞える。
つまり、僕らをこれほどまで感動させる音楽、時代を超えて聴きつづけられる名演奏は、当事者にとっては「ガハハハ」なんて演奏そっちのけで笑いながら聞けるものだった、のかもしれない。
実際のところ、ここに収められた拍手や歓声はそれほどでないのだ。しかし、だからこそこの録音は二度と再現できない特別な空間を記録した。ざわめきから立ち昇るピアノの一音が、かけがえのないものとなった。そんなふうにも考えられるのだ。
つまり、観客も参加して(スプーンや笑い声で)こそ成立した空間。ジョン・ケージが『4分33秒』と題した理念だけの音楽(その時間なにも弾かないことで、観客まで含めた空間そのものが音楽であるとした)を、この録音は偶然にも創りあげてしまった。
この録音を聞くと、まるで時代を超えて50年代のニューヨークに迷いこんだような気分にさせてくれる。それも、やはり観客の名演奏(スプーンの落下音や笑い声)があってこそ。
そこで、僕らには一つのテーブルがあてがわれ、まるでエヴァンスその人を目の前にして聴いているかのような錯覚さえ覚える。
音楽とは、それが鳴っている時間だけ存在する芸術だ。そう、切り取られたある一定の時間が、僕らを経験したこともない空間へといざなってくれる。
この録音における最高の共演者。それは、夭折の天才スコット・ラファロでなく、よき理解者ポール・モチアンでもない。偶然そこに居合わせた人々。げらげら笑う行儀の悪い客や、スプーンを落とすおっちょこちょいさんたちである。彼らがいなければ、この録音はこれほど素晴らしいものにはならなかった。ビル・エヴァンスには失礼だが、どうしてもそう思ってしまうのだ。
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